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『教会領長崎 イエズス会と日本』 [読書メモ2014]

『教会領長崎 イエズス会と日本』 安野眞幸 2014/06
教会領長崎 イエズス会と日本 (講談社選書メチエ)
 著者は弘前大学名誉教授。専門は対外交渉史。 イエズス会の日本、特に長崎での活動についての本。

 長崎がポルトガルと貿易を続けていた期間は、1571年の開港から、江戸幕府がポルトガル船の入港を禁じた1639年までの68年間。 その中で、大村純忠(すみただ)が長崎をイエズス会に寄進したのは1580年(天正8年)、秀吉が没収したのが1587年(天正15年)。このとき「バテレン追放令」が出された。
 イエズス会の日本での布教長は、①ザビエル(1549-1551) ②トルレス(1551-1570) ③カブラル(1570-1580) ④コエリョ(1580-1590)。 巡察師ヴァリニャーノは1579年に来日し、天正10年(1582)に遣欧少年使節とともに去り、天正18年に彼らと共に再来日した。
 1571年に長崎が開港すると、長崎湾の奥に突き出した岬の先端に砦のような教会(岬の教会)が立てられ、つづいて町が建設された。都市長崎はポルトガルがインド洋に築いた植民城塞都市と良く似ていた。大村氏は長崎の自治への動きの防止策として、教会への寄進を考えていたが、「原則主義」カブラルは教会が領地を持つことに反対した。しかし巡察師ヴァリニャーノが赴任し、カブラルを解任することで教会領長崎が誕生した。ザビエル、ヴァリニャーノは「(現地)適応主義」と呼ばれる。
 当時キリスト教は仏教の一派だと理解されていた。秀吉は「バテレン追放令」発布の際、「八宗九宗」として、仏教「八宗」に新しい宗派が加わって「九宗」になったものとの理解を示した。
 ザビエルは来日してすぐに布教計画を立てたが、その中で重要なのが「ポルトガル商館の建設」だった。実際にはポルトガル国王の力はこの地まで及ばないので、教会の「商館」だった。出入りする物品に「関税」を掛けてイエズス会の運営資金とする仕組み。貿易船に課せられた「口銭(礼銭)」は1割という高率だったらしい。
 南蛮貿易の中心は、中国産生糸と日本「銀」との貿易である。「岬の教会」には生糸の倉庫があり、生糸取引の中心地だった。1634年に岬のさらに外側に「出島」が築かれ、倉庫機能はこちらに移った。「ポルトガル船来航禁止令」の後はオランダ人が出島に入った。
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